九谷焼の始まり
加賀前田藩の分家である大聖寺藩は主たる財源の金鉱業が衰退の一途で、藩主は新たな財源を探していました。
九谷村で鉱山開発中に陶石が発見され、藩は磁器生産への転換を図り、鉱山で錬金役を務めていた後藤才次郎に命じ、肥前有田(佐賀県有田市)で作陶を学ばせました。
古九谷の生産
有田から九谷へ戻った才次郎は、田村権左右衛門を指導して、1655年窯を開き、色絵磁器生産を開始しました。
しかし、約50年くらい存続した後、1700年代の初めに突然閉じられました。
その理由は謎です。
このたった50年間の間に作られたものが、現在「古九谷」と呼ばれる磁器です。色絵が施され、力強い様式美を持ちます。
数少ない古九谷の磁器は石川県九谷焼美術館などでご覧いただけます。
九谷焼の再興
閉窯から約100年後、江戸後期に、九谷の復活を目指して、加賀藩が、京焼の名工 で文人画家の青木木米(くべい)を指導者に招きました。春日山窯ができ、赤絵の先駆け、木米風ができました。
1827年(文政7年)には大聖寺の豪商吉田屋の豊田伝右衛門が青手古九谷の復活を願い、九谷村の古九谷の窯の隣に窯を開きました。のちに交通の便が良い山代温泉に窯を移し、吉田屋風と呼ばれる作品群が誕生しました。(1831年廃業)
1831年(天保2年)には吉田屋の現場支配人宮本屋宇右衛門(みやもとや うえもん)が宮本屋窯を開き、主任の絵付け職人、 飯田屋八郎右衛門(いいだや はちろうえもん)の緻密な赤絵描写が高評価を受け、飯田屋風といわれる赤絵の様式(八郎手)が確立されました。
その他、1841年(天保12年)には庄三風、1865年(慶応元年)には金襴手が永楽和全によって京都から伝えられ、永楽風が誕生しました。
1848年(嘉永元年)、大聖寺藩が築いた松山窯は御用窯(ごようがま)とも呼ばれ、藩の贈答品として古九谷青手系の上質な作品が作られました。
こうして、江戸後期に「再興九谷」と呼ばれる作品群が生み出されました。
明治以降
明治時代になると、八郎手と金襴手を融合した様式が広まり、九谷庄三(くたにしょうざ)により大成された「彩色金襴手」は「Japan Kutani」として海外でも認知度が高まり、欧米向けに数多く生産し、日本の代表的な色絵磁器となりました。