萬古焼 の特徴 と醉月窯 さん
先日 三重県四日市市にある萬古焼、醉月窯(すいげつがま)さんを訪問しました。
醉月窯さんは、2016年G7伊勢志摩サミット夕食会で乾杯に使われた萬古焼盛絵酒杯を作られた窯です。
醉月先生、奥様のきし代さま、ご長男の潤さま、ご次男の潮さま、ご家族4人で力を合わせて陶芸活動をなさり、子供向けの陶芸教室を開かれたり、それぞれが幅広く活躍されています。
醉月窯の始まりは、1900年(明治33年)。初代醉月さんが木型を作って急須を作りました。
四日市で、なぜ陶芸が発達したのか、私は興味を持ちました。
例えば、私が知る砥部焼ですと、砥部には燃料となる赤松の木が豊富にあり、地下には断層が走っていて、焼き物の原料となる陶石が豊富にあり、砥部川が流れていて水があり、焼き物に好適な土地でした。
そこで清水醉月先生に、なぜ萬古焼がこの地で発達したのか尋ねました。
先生のお話では、萬古焼の場合は、特段に焼き物をする為の自然条件が整っていたわけでは無いそうです。
室町時代に当時有名だった伊勢天目と言う茶碗を扱った桑名の回船問屋、沼波(ぬまなみ)家が、江戸時代に萬古焼を作り始めました。今でも使われる「萬古不易」という言葉は、「いつまでも栄える優れた焼き物」と言う意味で、沼波家の屋号に由来するようです。
一時期、後継者不足で廃絶しましたが、江戸時代に、桑名の古物商、森有節、千秋兄弟により再興されました。
ちょうど抹茶から煎茶に流行が変わり、外国より国粋を尊ぶ国学が盛んとなって、豪華な大和の絵付けと煎茶に必要な急須を木型で成形したところ、人気となりました。
余談になりますが、国学といえば伊勢国松阪に居を構えた本居宣長。四日市はその近くですから、当然国学隆盛の影響が大きかったことは想像できます。
木工の得意な有節と、発明が得意な千秋。有節は提灯作りの枠をヒントに木型を作り、千秋はぐるぐる回る蓋、取手の遊環を考案して、急須作りをしたそうです。
萬古焼の特徴はこの木型です。
かつて、焼き物が飛ぶように売れる時代があり、木型で作陶する方法は、比較的容易で誰でもができたので、みんなが焼き物を作るようになったそうです。
土の縮みが激しく木目が細かいため、大物作りよりは、急須作りに適していると言います。
土の中の酸素を奪う形で、還元状態で焼かれます。
萬古焼のもう一つの特徴は粉彩絵の具で描かれた華やかな大和絵です。
醉月窯では、奥様のきし代さんが華やかな美しい盛絵(もりえ)を描かれています。
醉月先生のお話では、萬古焼の窯元たちは、その後も時代の流れに合わせて売れるものを作っていたので、あまり枠がなく自由な作陶活動でもあるそうです。
醉月先生も、チャレンジ精神旺盛で、萬古焼の大家になられた今も、フランス料理の熊谷喜八さんとコラボされて、ショウプレートを作られたり、常に新しいことにトライされている姿に、感服いたします。