展覧会「煎茶-山本梅逸と尾張・三河の文人文化」
先日、愛知県陶磁美術館で「煎茶-山本梅逸と尾張・三河の文人文化-」を鑑賞しました。
展覧会では、売茶翁・高遊外所持を含む数々の煎茶道具の他、江戸時代後期から明治に栄えた尾張・三河の煎茶文化を取り上げ、
名古屋出身の文人画家・山本梅逸(1783-1856)と三河の八橋売茶翁・方巌(1760-1828)、中国から渡来し、常滑に朱泥急須の技術を伝 えた金士恒等の作品が中心に展示してあります。
とても美しい煎茶道具が数々あり、思わず魅入りました。
清時代の滑らかな曲線が美しい朱泥茶銚(常滑焼のルーツがわかります)そして白泥炉。
明時代の漆器、青磁。
江戸時代の南蛮急須、華やかな金襴手茶銚・・・・。
こうした出展作品には個人蔵も多く、凄いなあと思います。
一方、今回の展覧会で、私は改めて煎茶の歴史を学ぶ機会をいただきました。
煎茶は、紀元前から薬として茶が飲まれていた中国の茶文化が源だと言います。
お茶は、中国から進んだ制度、文化を取り入れようとした奈良・平安時代に、遣唐使や留学僧によってもたらされたと言われています。
室町時代の足利義満の時(1358~1408)、義満の中国への憧れが強かったので、中国の宋風の茶道具が輸入され、宋の文人文化への憧れから文人趣味が起きました。
時代を経て17世紀後半(江戸時代前半)黄檗僧の到来とともに、新たな文人趣味が沸き起こって江戸時代後期には煎茶の大流行に繋がったと言います。
その大きな役割を担ったのが、今回の展覧会でもスポットを当てられている黄檗僧で売茶翁・高遊外(1675-1763)。
薬として珍重され、身分の高い人の飲み物であったお茶を、京都を中心とした知識人の間に広めたそうです。
茶の湯の千利休が侘び茶の祖・茶聖と称されるのに対し、
高遊外売茶翁は煎茶の祖・茶神と呼ばれます。
佐賀生まれの高遊外売茶翁は、もともと黄檗宗の禅僧で各地を巡り、長崎で煎茶を学び、60歳を過ぎてから京都で売茶の業を始めました 。
鴨川のほとりに、”日本初の喫茶店”「通仙亭」という茶店を構え、自ら茶道具を担いで、四季折々の名所へ出掛け、清明な自然の中で茶 を煎じて売ったそうです。その際、相手の身分を問わず、お茶を売りつつ禅を説きながら、 世の中の諸事を物語って聴かせたので、たちまち話題となって広まったそうです。
明治時代前期頃まで煎茶文化の大流行が続きましたが、日露戦争、第一次世界大戦の勝利で日本が中国大陸へ進出するに従い、文人趣味と煎茶の流行に陰りが見え始め、
昭和時代の軍国主義の台頭で、それまで忘れられていた桃山時代の美術・工芸と茶の湯が日本独自の伝統的な文化、美術として、人々の注目を集めるようになりました。
つまり、中国文化への憧れで世間に広がった文人趣味と煎茶は、
中国への進出を進める社会状況、国民意識の中で徐々に影を薄め、
変わって、人々の興味は桃山時代の美意識、茶の湯の伝統に移り変わっていき、現代に至るようです。
一方、韓国では・・・・
一昨年韓国務安郡を訪ねた時、茶道のお点前を見学させていただいたことを思い出しました。
韓国でも仏教が隆盛であった三国時代、高麗時代には茶文化が一般的に普及していたのですが、
朝鮮王朝は儒教を国教としたため、仏教文化の茶文化を禁圧。その後、お茶は精神を清め、覚醒するものとして、お寺のお坊さんや、貴族たちの間でひっそりと嗜まれたと地元の方から教えていただきました。
しかし、1960年代には数か所の寺のお坊さんたちが若干栽培しているだけだったそうです。
韓国では一般的にコーヒーの普及が盛んになりお茶を飲む習慣はだいぶ廃れているようです。
以上、お茶をめぐるとりとめもない話になりましたが、